石川英輔 著「大江戸・いな吉シリーズ」
故郷の東京を再認識

 私が東京で料理教室をしていた頃、がんばっていた若い弟子がいた。私が沖縄に移住してたった一人で料理店を開店するときも、夫君を置いて、しばらく泊まり込んで手伝ってくれた位 のいわば片腕のような弟子だ。彼女も私に影響されてか、沖縄病になり何度も通 ううち、彼女の両親もまた沖縄にはまってしまい、毎年のように家族旅行で沖縄へやってくる。東京にいたら、たぶん会うこともなかったであろう、彼女の父上が沖縄で、彼女のことを「いな吉っつあん」と呼んでいる。呼ばれた彼女も聞き流しているので、最初は聞き違いかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。もちろん彼女の名前は「いな吉」なんて名前ではない。私は泡盛を飲みながら、父上に「いな吉って誰ですか?」と尋ねた。

 地元栃木で国語の教師を長らく務め、現在は大学教授である父上は「いな吉は、江戸の芸者です。石川英輔先生という方のご本に登場する女主人公なのですが、粋で、小股の切れ上がったいい女でねえ、娘にそっくりなんです」とうれしそうにおっしゃる。そして「とても面 白い本なので、是非読んでみてください」と旅のあと数冊の文庫本を送って下さった。 「いくら小説に出てくる主人公が自分の娘に似ていても、その名前で呼ぶかなぁ、しかも芸者だよ」・・・といぶかしく思いつつも、いただいた本を読み始めた。果 たして「いな吉」は、本当に彼女そっくりだった。小柄で愛嬌があり、よく気が利くし頭もいい。私も父上の意見に賛同してそれ以来彼女のことを時々「いな吉っつあん」と呼ぶようになった。そして、そのこと以上にこの本にのめり込んだ理由がある。

 全シリーズ通してのあらすじは、現代の東京に生きる男主人公が、ひょんなことからタイムスリップする力を持ち、東京と江戸を行ったり来たりする、という話なのだが、人間模様はもちろんのこと、それ以上に、詳細に描かれる江戸の情景描写 がどうにも素敵なのだ。もちろん著者は江戸に生きたわけではないが、江戸研究を極めており、リアリティがある。文字だけなのに目の前に鮮やかな風景、たとえば隅田川に浮かべる船からの花見、品川の紅葉遊山、錦絵、浮世絵を売る店、商家の正月風景、愛宕山の雪見・・・四季折々の江戸の暮らしが見えてくる。挿し絵や、もちろん写 真などないのに、色彩、土の匂い、そして水の音まで聞こえてくる。さらに著者は、現代の変わり果 てた東京と、江戸とを見事に比較し、痛烈なるコメントを嫌みなく、さりげなくちりばめている。大人になって、のめり込むほどの本に出会わなくなって久しかったが、弟子親子のおかげで本当に面 白い本に出会うことができた。 まるで自分が江戸で遊んでいるような錯覚さえ覚えるこのシリーズは、私の故郷東京を再確認する本でもあったのだ。